読みました!!!!「筋肉バカの壁」水道橋博士著 水道橋さんからじきじきに。 絶対買うつもりでいたので恐縮です。 実は今、読み終わっていてここにまだ載せていない本が数冊あるのに、 もう一気読みで先に。 「本当の小説(文学)」と「小説(文学)に似てるけど違うもの」の違いは その「肉体性」にあると僕は考えているわけです。完全に僕基準ですがどんなに小説(文学)の態であっても 「これは小説(文学)ではない!」と思うものと、 舞台、映画、音楽など、別のメディアであっても 「これは小説(文学)だ!」と感じるものも多々あるのです。 それは「肉体」を感じたかどうかなんです。 ほんとに僕感覚なんですけど。 そういう僕の勝手な基準で考えるとこの本は完全に「小説(文学)」です。 ご本人に聞いた話の印象とかも含め、読んで感じたのは、 その「『小説(文学)性』をなるべく排除したい」という 水道橋さんの強い意思でした。
しかし、どうしても排除できない。 その葛藤そのものがこの本の「肉体性」だと僕は感じたのです。 「小説(文学)」から離れようとすればするほど「小説(文学)」になっていく。 文章がものすごくうまい水道橋さんだから生まれる現象だと思う。 個人的にはもっとどんどん小説(文学)から離れて欲しい。 普通の人はこれを読んだら 「水道橋さんが書く小説を読んでみたい!!」になると思うんです。 それくらいこの本で水道橋さんは深いところに潜り始めてる。 前作より「ズブッ」としたところがある。 けど、僕はやっぱり「それでは小説を…」というのは 違ってしまいそうな気がしてるんです。 「本当に知っていることしか書けない」が小説(文学)の基本です。 この方は本当に知っていることしか書かない。 そのストイックな姿勢にフィクションはかみ合わない気がするんですよ。 でも、逆にめちゃくちゃに手を抜いてさらさらと小説を書いたら、 すんごく素敵なものを書いてしまいそうな気もする。 すんごい泣けるやつ。 でも、それが人に受け入れられたとしても ご本人は納得しないんじゃないだろうか。 僕もそれを読んだら大泣きするだろうし、 (絶対「泣き」を書けちゃう人だと感じてるのね、僕) 感動もすると思うけど、 でも、「なにかが違う」と感じてしまうことは間違いない。 違和感。 巧く行き過ぎている。 そんな違和感。 とにかく小説(文学)から離れれば離れるほど小説(文学)になる感じは 中原昌也さんに近いものだと思う。 僕の勝手な予想だけど、水道橋さんが本当の小説(文学)を書こうとしたときは 芸人を辞めることを決意した時なんじゃないかと思う。 そのくらいの覚悟がないと小説(文学)を書いてはいけない。って考えてると思うんですよ。 でも芸人として書く文章は自分の意思とは無関係に どんどん小説性(文学性)を帯びていく。 こういう事実を並べていくとやっぱり水道橋さんには 小説(文学)からどんどん離れて欲しいという結論にたどり着く。 なぜなら水道橋さんにはずっと芸人でいてほしいし、 芸人でいながら小説性(文学性)を手に入れることの出来る 唯一無二な存在だと思うからです。 とにかく、ちゃらい小説(に似たもの)を読む時間があるなら みなさんこれを読んでください。 |