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THE MAKING OF 浅草キッド
あるいは、笑いのバーリ・トゥーダーへの道
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text by 水道橋博士 「笑芸人」vol.4より
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「おめぇらは、いろもん(色物)なんだよ。
漫才が本寸法(ほんすんぽう)にかなうわけねぇだろ!
馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ!」
と俺たちに頭から冷や水をかけるように言い放ったのは、
かなり酔いの廻った高田文夫先生だった。
時は、1991年、11月25日―。
場所は、新宿の三光町の「どん底」だった。
この日、下北沢タウンホールではニッポン放送主催、
第1回「高田文夫杯争奪お笑いゴールドラッシュ」が開催され
俺たちは、春風亭昇太、ホンジャマカ、相馬ひろみの出演者の中で
見事、優勝を飾った。
この優勝の副賞として、
ニッポン放送のラジオ番組のレギュラーが約束され
俺たちは有頂天であり文字通りの「一夜の王」であった。
この時、俺たちは、たけし門下に入門して5年目のことであった。
前年末、テレビ朝日の「テレビ演芸」で
10週連続の勝ち抜きチャンピオンに輝き、
ようやく、たけし軍団の役立たずの3軍、余剰人員から脱して
“漫才師”として世に認識された頃だった。
打ち上げで高田先生や審査員先生方に囲まれ、
今まで言われたことがない称賛の言葉と美酒に酔い
「もう一杯いくぞ!」と先生に誘われて行った3件目のお店であった。
「絶対に若手の落語家には負けませんよ!
だって俺たちはツービートの弟子ですからね、
漫才ブームで輝いた漫才師最強の栄光を取り戻しますよ!!」
今から振り返れば若気の至りであるが、
すっかり酔いに任せて意気がっていた。
この台詞にそれまで上機嫌に飲んでいた先生の表情が一変すると
冒頭の発言を立川流真打、立川藤志楼の顔で発した。
さらに、
「落語家はなぁ、生涯芸人なんだよ。
おまえらみたいな腰かけじゃないんだ、
江戸300年の歴史と伝統があるんだよ。
何百年、代々芸を受け継いで板に立ってきたと思ってんだよ。
おまえら、ちょっと漫才で注目されてテレビに出てチヤホヤされて
タレントになりたいだけだろ! おまえらシロートなんだよ!」
藤志楼師匠は怒りの形相で俺たちをカタカナ呼ばわりで罵倒した。
俺たちにとって「一夜の王」から「どん底」へ突き落とされる、
思わぬ大目玉となった。
あれから、10年が経った。
振り返れば俺たちが“漫才師”という職業を自覚し
プロ意識に目覚めたのは間違いなくこの夜、以来である。
考えてみれば、この言葉がなければ果たして俺たちが、
こうして15年も“漫才師”を続けているかどうかは、かなりの疑問だ。
さて、今回は編集部より浅草キッドの漫才を
自己分析をしてくれとの発注である。
なかなか、面はゆい話であるから、
ここは自分の芸人としての出自を語ることから始めることにしよう。
今でこそ、俺たち浅草キッドは、ビートたけしの直系の弟子として
漫才師を名乗ってはいるが、実は俺たち以前に我が一門には、
引き継ぐべき漫才師の伝統、漫才師の遺伝子などなにもなかった。
なにしろ、俺たちが入門した時には、
先輩である、たけし軍団の一軍のなかにも漫才師は一人もいなかったのである。
(そのまんま東さんは「ツーツーレロレロ」という
コンビを組んでいたが既に解散させていた)
自分に関して言えば、元々、俺は幼少時代に“漫才師”はおろか
“お笑い”に職業として憧れたことはなかった。
少年時代、当時は誰しもがテレビの「巨人の星」に憧れ、
野球選手になりたいと思っていた頃、オレの憧れの職業は
“プロレスラー”でありアニメの「タイガーマスク」に子供心に魅せられていた。
孤児院「ちびっこハウス」出身の主人公・伊達ナオトは
悪役レスラー養成機関「虎の穴」で純粋培養される。
その後、虎の仮面の「タイガーマスク」としてデビューすると
「虎の穴」を裏切る。
そして悪のマネージャー・ミスターXの送り込む
数々の刺客との抗争を繰り広げ、レスラーとして成長を遂げる。
少年期、俺はこの物語に何故にあれほど魅了されていたのか?
ちなみに、この漫画の原作も「巨人の星」と同じく梶原一騎先生である。
現在30代の男性は大半が、同じ体験を持つハズだが、
俺たちの世代が、梶原一騎の持つ血わき肉躍る作品世界に
少年時代の情操教育を受けたことは間違いない。
さらに男の子の情操教育と言えば、
アントニオ猪木のプロレス、角川春樹の映画と文庫に直撃された世代である。
梶原一騎、アントニオ猪木、角川春樹―。
奇しくもこの3人はいずれも名前の語尾がキの字で終わり、
破天荒な仕事ぶりと共に、
私生活は常人からは狂っているとしか思えない無軌道を生きた。
この“日本3大キ印”の影響は抜き難い。
そして俺は、タイガーマスク体験以降は熱烈なプロレスファンとなり
今度は、アントニオ猪木に魅入られた。
『いつ何時誰の挑戦でも受ける!』
『“プロレス”とは“闘い”である』
いくつかの言葉に象徴される猪木イズムは、
今だに俺たちの信条の血肉である。
今、成人した俺の見た目の“永遠の少年”ぶりを見れば
とても信じてもらえないだろうが、
子供の頃は本当にプロレスラーになりたかった。
しかし何故に廻りの多くと同じように、
「巨人の星」であり、プロ野球選手ではなかったのか?
ズバリ、俺には子供心にも、パンツ一丁の裸で客前に、
生身をさらし、返り血を浴びることを厭わず、
長いスパンで人生の力比べを競い合う、
プロレスラーが実に潔よい男達と思えたのだ。
今でもプロレスラーになりたいかと言えば、
それは土台、無理な話であろう。
だが、プロレスラーになれなかった分、
その指向の何割かが、同じように客前で、自分をさらけ出し、
長いスパンで人生の力比べを競い合う職業である、
“芸人”を指向することになったのではないかと思う。
もちろん、これは代替作用とも言える。
浅草キッドの漫才の原点にあるもの―。
「漫才師はプロレスラーだ!」と言う
実に俺たちらしい幼稚で勝手な思い込みも、
こんな少年期の刷り込みから始まっている。
俺はプロレスラー志望の小学生と言う馬鹿げた夢想もしたが、
それなりに学業優秀でもあった。
しかし、これが長続きすることなく中学、思春期を迎え、
健全に育つことはなくズルズルと落ちこぼれ、ドロップアウトした。
青春時代、俺はそれまでのクラスの人気者の座は滑り落ち、
人付きあいが苦手で毎日が重苦しく悶々と日々を過ごす、
今でいうところの“引きこもり”状態でもあった。
丁度、この時期、“漫才師”を強烈に意識しすることになる。
1980年、日本中を熱狂に覆った「漫才ブーム」である。
第何次お笑いブーム、とかいう言い方があるが、
大津波のようなあのスケールからしていまだに、
この規模に比肩するものはないだろう。
この空前絶後のブームで当時の漫才師は日本中で、
最もカッコイイ職業に映った。
大袈裟でなく漫才師は時代の最先端でありスーパースターだった。
建前と段取りで話すブラウン管のタレントとは異なり、
漫才師は自前の、むき出しの言葉を捨て身で突きつける男たちに見えた。
思えば漫才ブームでは、
ビートたけしだけに熱狂していたのではない。
やすし・きよし、B&B、紳助・竜介、
ぼんち、のりおよしお、サブロー・シロー、
どのコンビも無秩序なパワーを発散させ、
各自を意識しあい火花を散らしていた。
特にフジテレビのゴールデンの特番「THE・MANZAI」は、
時間内で勝負を競いあう、己のプライドを賭けた闘いであり、
演者が意地を張った丁半博打のような鉄火場に思えた。
そう。“お笑い”とは“闘い”だった。
そして、今思うと漫才ブームは、
金曜8時のゴールデンタイムに視聴率20%を超えていた頃の
全盛期の新日本プロレスの黄金時代と期を一にするのだ。
この時期、アントニオ猪木が全盛時代、
坂口、藤波、長州、前田も高田も揃い踏み、
なによりアニメから飛びだした実写のタイガーマスクが
絶大なるブームの一翼を担った。
いわゆる一癖も二癖もある昭和のプロレスラーは、
異形の怪物であり、常人にはない匂いをまき散らしながらも、
ゴールデンタイムに野性のまま放し飼いにされていた。
これが、後に「管理の杜撰なサファリパーク」と言われた
80年代の新日本プロレスである。
プロレス界に限らず、芸人社会においても、
この言葉が代表するアナーキーなジャンルへの郷愁や、
賛美が俺たちの体と記憶に染み付いている。
その例えで言えば「誰にでも楽しいテーマパーク」こそが、
現在のプロレスでもあり、ひいてはテレビでもある。
話を戻せば、思春期に訪れた大きな波、プロレスブーム、
そして漫才ブームにどっぷり漬かりながら俺は思い悩んでいた。
将来、何をやろう?
ああ、俺はプロレスラーにはなれない…。
その頃には、さすがの俺にもわかる。
肉体的どころか精神的にも俺は普通の人より遥かに劣る“ダメ人間”であった。
思春期特有の悶々のなかで何を考えていたかのか?
そして新たなヒーローが現れる。
竹中 労 ――。
ペン1本で権力に挑む、ルポライター。
「よろずケンカ売ります、買います!」
「お偉い連中は下賎のドブ板のことは御存じない!」
「スキャンダルをとことん徹底すること、
低劣、卑俗とおとしめられる芸能界のゴシップから
人間と社会の矛盾をあばく作業をスキャンダリズムというのである」
竹中労は過激に喝破した。
ルポルタージュとは、エラそうな奴に舌を出し、
隠された真実を暴く正義の剣であった。
これは響いた―。
ただし、当時から俺は決して正義感ではなかった、ただのダメ人間だった。
正義には出口なし、袋小路だ。
そこで、目覚めた。
漫才ブームの「お笑い」には「出口あり」という感覚が発見だったのだ。
「お笑い」と言う、実に平和的な和気あいあいの響きのある言葉に反して
「漫才」は闘争的であり、尖って、ささくれて心に突き刺さる
批評性とスキャンダリズムを持っていた。
なりより、テレビを覆っていた偽善的な雰囲気やら
儀礼的なワンパターンを嫌い、世間という卓袱台をバーンと、
威勢よくひっくり返す感覚に魅入られた。
お笑いは閉塞感がない。
ダメでも、失敗しても、また、そのしくじりを笑い飛ばして次がある。
しょせん言い訳に過ぎないことでさえ、
お笑いの中で内包されているイメージは「脱出口」であった。
逆説的ではあるが、
例え笑いとして受けなくても、お笑いは、それを笑う度量がある。
猪木流に言えば「どうってことねぇよ!」
ってことである。
そして、この時期、
ビートたけしのオールナイトニッポンに決定的に啓示を受ける。
何度も書いている話であるが中学時代、
同級生だった元・ブルーハーツ、現・ハイロウズのボーカル、
甲本ヒロトは、ロッカーとなった理由を
「ラジオからビートルズが流れてきたから」と言った。
そのフレーズを頂ければ、俺が漫才師になったのは
「ラジオからビートたけしが流れてきた」からだ。
ビートたけしの名の下に集まれ!
18歳の時、たけし軍団に行く決意をした。
東京に出れば、何時か、たけしの下に行けるだろう。
当時、たけし軍団こそダメ人間の駆け込み寺であった。
ここまで俺の話だけを書いてきたが漫才師はユニットである。
二人の人格の集合体だ。
俺に言わせれば玉袋こそが、浅草キッドの根源的性格でもある。
玉袋筋太郎―。
新宿生まれの新宿育ち。
中高時代通して帰宅部で、しかも、かぎっ子。
テレビや映画、漫画を子守歌に育った。
当然、受験勉強とは無縁で、
偏差値教育に全くさらされていないながらも
“芸能偏差値”は飛び抜けて高い、都会っ子である。
また、性格も鉄火肌の江戸っ子である。
さらに、酒を飲めば、往年の横山やすしを彷彿させる
「俺こそルール」の生来の芸人気質である。
所謂、世間で漫才師の役柄である呑ん気なお人好しのボケではない。
極めて戦闘的だ。
引きこもりの末、大学を3日で辞め紆余曲折を経た、
なれの果ての俺と、ビートたけしの追っかけあげりで、
高卒即たけし軍団入りの芸人エリートの玉袋が
ビートたけしの名の下に掛け合され「浅草キッド」が生まれた。
芸人養成のため預けられた「虎の穴」は、
昔、殿が修業していた浅草の「フランス座」という
うらぶれたストリップ小屋の住み込みであった。
当時、人気絶頂だった、たけし軍団の下でテレビに出ることもなく、
なにより殿にお目通りが叶うことなく俺たちは“下賎のドブ板”に沈んだ。
まさに「タイガーマスク」のテーマではないが、
♪ひねくれて育ったボクは孤児みなしごさ♪の気分であった。
バブルの全盛時、
浮かれきった世間をしり目に日給千円、食うや食わずのその日暮らし。
玉袋は短期間で、20キロも痩せ、ダニに全身を食われた。
二人ともに栄養失調だった。
しかし、これは、“娑婆っ気”を抜くためには、
なによりの人格改造装置だった。
深夜、フランス座の劇場で玉袋とビデオで見た
『キング・オブ・コメディー』のデ・ニーロの台詞。
「どん底で終わるより一夜の王になりたい!」
この言葉は芸人を始める上での俺たちのスローガンだった。
こういう点では、ボキャブラなどで出てきた
最初から匂いを消すようデオドランドに養成された芸人に、
俺たちが、いまだに違和感を感じる体質になるのも無理はない。
諸事情あって「フランス座」を追い出された俺たちは
本格的に漫才を始めた。
何しろ、17人も兄弟子がいたのである。
たけしファミリーのなかでも、捨て子同然だった俺たちは、
師匠のビートたけしになんとしてでも振り向いてもらいたかった。
そのためにも漫才を始めた。
しかし、この時期は暗転を多用し、
DCブランドを着たおしゃれなシティー派コント全盛の時代、
俺たちは明らかに時代遅れだった。
なにしろ漫才ブームが通り過ぎた後である、
この漫才道には草木も生えていない。
見渡すと東京の若手で漫才をやっていたのは
「笑組」と俺たちの2組だけだった。
(後に爆笑問題や、キャイ~ンが続く)
俺たちが漫才のスタイルとして、
ツービートに最も影響を受けているのは、異論がない。
新日本にストロング・スタイルがあるように、
お笑いにストロング・スタイルと言うものがあるとしたら、
笑いの質の強度にあると思う。
考えてみれば、ほのぼのや、癒し、まったり、
こららの言葉に似合うお笑いを(観客としては楽しんだことはあっても)
演者としては志したことがない。
言葉の強度に関心があるのだと思う。
漫才作りを突き詰めて言えば、
オチの一言へ向う振りの言葉の試行錯誤である。
どこまでオチへ向けて、
言葉の強度を高めていけるのか―と言うことだ。
そして、入門以来15年、
既に、漫才ネタは、150本以上を作ってきたであろう。
昔、赤信号のリーダー渡辺さんは、若手のライブのネタ見せの時に、
「赤信号で、ネタは200本以上作ったと思う。
でも、今でも、営業やテレビで何度でも出来るネタはたった2本だけだ。
じゃあ、なんのためにネタを作るかって。
その2本のために、200本作るんだよ」と言っていた
この言葉は今にして思い当たる。
さらに村上龍が自らの小説づくりについて、
「地味な作業の繰り返しを、
いかに厳密に積み重ねていくかで出来が決まってしまう。
観る側は中に込められたメッセージにではなくて、
厳密さに反応すると思うんですよ。
大切なのは、手持ちの情報や素材の範疇で、
自己嫌悪に陥らないよう完成度を高めていく作業ですよ」と語っている。
無論、浅草キッドの漫才と村上龍の作品を比べるつもりはないのだが、
この言葉には、共感するものがある。
「メッセージではなく、厳密さ」も思い当たるが
「自己嫌悪に陥らないよう」ってところが、深く通じるものがある。
大半の表現者にとって処女作から何作かを除いては、
作品作りにメッセージは、含まれることが少ないだろう。
そして漫才もコラージュのテクニックや、
サンプリングの産物である場合が多いだけに、
手法が完成していけば、その反復に飽きざるおえない部分がある。
時事ネタを鮮度良く料理しようと思えば、なおさらのことである。
そして渡辺さんが語った2本とは、
テレビへのパスポートなのかもしれない。
最初から、その2本と見限れば、
ネタ作りを捨ててタレント転身は可能なのだ。
今の時代、漫才師はテレビ出演と共に、
タレント化して舞台を卒業する傾向は高いであろう。
俺たちも、あのゴールドラッシュの優勝の夜、
テレビタレントへのパスポートを手にしたと錯覚していた。
そんな時に、冒頭の高田先生の言葉だった。
その後、俺たちは高田文夫と言う
“ミスターX”がプロモートする試合が漫才師としての主戦場となる。
90年代初期の「関東高田組」なる動きはその一貫であり、
落語家、漫才師、コント、物真似などあらゆる寄席芸が入り乱れ、
交流し、同じ舞台を共に闘った。
異論もあるだろうが、90年代、東京で、俺たちは、
いわゆるテレビをメインとするタレント活動と平行しながら、
もっとも本寸法の寄席芸人と交流した“いろもん”であるはずだ。
ビートたけしに入門して今年で丸15年が経過した。
2年前のことだ。ビートたけし邸にて。
「おまえらが、オレに影響を受けてるんだろうけど、
オレが見てもオレ好みのネタを、おまえらやるなあ」と言葉をかけられた。
殿に振り向いてもらいたくて漫才始めた、
オレたちには、最高の褒め言葉だ。
殿に漫才のことを直接、評されたのは、今までこの一言のみである。
そして高田先生に
「おまえらはシロートだよ」と言われて10年である。
しかし、今なら自分の職業が漫才師であることに自覚がある。
充分、職人だと思う。
ダメなテレビタレントだとは言われることはあっても、
ダメな漫才師だとは言わせない。
漫才師に特別なプロ意識があり、
本業が漫才師であることに矜恃がある。
今まで、漫才師として、
同じ舞台で同じ観客で、同じ勝負を競い合う―。
このイメージにはこだわっていたと思う。
今後、年齢と共に、枯れて、力を抜いて、
間と、佇まいで、板に立てるような芸人になるのかどうかはわからない。
またその指向があるのかもわからない。
しかし、主にテレビタレントの活動が主になった今や、
俺たちも漫才師としての試合数が限られているのも事実だ。
関西の漫才師や、関東でも漫才教団の漫才師が
演芸場で毎日の連戦を経験し熟練していくころを伝統としたら、
俺たちは明らかにその慣習を離れ、試合数は少ない。
だからと言って、それを危惧しているところは全くない。
俺たちの愛した、プロレスが形とスタイルを変え
「ヒクソンvs高田戦」で幕開けた新格闘技の「PRIDE」シリーズへと
転化して行ったように、少ない試合数でも、
強い印象と名勝負を残すことは可能なのだ。
桜庭和志を見て欲しい。
東北は秋田で、幼少期、俺と同じように
アニメのタイガーマスクに憧れた少年は、
その想いを叶え本当のプロレスラーになった。
しかしながら、プロレスではファイトスタイルが地味で、
長く目立たない中堅レスラー止まりであった。
しかし、時代はプロレスと格闘技が混合され、
ガチンコ(真剣勝負)で闘う「バーリ・トゥード」という
「なんでもあり」のスタイルの試合が全盛となる。
師匠・高田延彦の仇討ちに桜庭は立ち上がり、
ここでようやく、日の目を浴びた。
「プロレスラーは本当は強いんです!」
彼は、はじめて大きく注目された試合で、勝利を収めた後、
マイクを握り誇らしげに自分の出自にこだわってみせた。
この競技では、当時、
プロレスラーは連戦連敗していただけに、鮮烈な言葉であった。
そして、プロレス界の救世主、桜庭和志は、
昨年、わずか6試合でプロレス大賞に輝いた。
97年より始まった、年に4回の新宿高島屋・紀伊国屋ホールの
「高田笑学校」こそ、我々にとって「PRIDE」である。
この舞台のルールは「なんでもあり」で、連続出場を続ける俺たちは、
他の出演者よりも勝負論にこだわっている。
俺たちは、バーリ・トゥーダーである。
松村邦洋、春風亭昇太、立川志らく、立川談春、
林家たい平、TAKE2、清水ミチコ、山田雅人、
小野ヤスシ、昭和のいるこいる、いっこく堂、順子・ひろし…。
これら強豪相手にメイン(とり)の舞台を守りきることが、
俺たちの漫才師としての誇りでもある。
「いつ何時誰の挑戦でも受ける!」
さて、この原稿、何がいいたいのかと言うと、(いよいよオチへと向う)
「高田笑学校」が「PRIDE」のリングであるならば…
メインを努める俺たちは「高田道場」で鍛えられた
漫才界の桜庭和志だと胸を張りたいだけなのである(そんなオチか!)
今改めて言う。
「漫才師は本当は強いんです!」
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